京都在住シングルファーザーおじさんのつれづれ雑記帳

京都在住おじさんによる匿名の日記です。ネットのすみっこでひっそりと生きています。ただいまシングルファーザーとして生きてます。備忘録ブログ

ガンダム 水星の魔女の第3話「グエルのプライド」…社会が乗り越えるべき壁はどこにあるか?

ガンダム水星の魔女、第三話まで視聴しました。

第三話では、グエルに対して、スレッタとミオリネが人生をかけてガンダムによる決闘で再戦することになります。いやぁ、ホント面白いです。Amazonprime会員の方は無料で視聴できますので、今からでも追いつけます。なるべくネタバレなしで感想を書いていきたいなと思ってます。

さて、この決闘の重要な点は「勝つために手段は選ばない、勝てばいい」というグエル父の極めて歪んだ価値観に、グエルが抗うことによって、グエルは直接のバトルの勝敗以上に大きなものを得る、つまり成長するという点です。これは「逃げれば一つ、進めば二つ」というスレッタ母のメッセージにもつながるものなのですが、大事なのは「進めば」と言っている点です。「勝てば」じゃないんです。物語はこの第三話のラストによって、社会と親による押しつけに対して抗う少年少女の様相を見せてきています。やはりこの物語のテーマは「革命」じゃないの?とすら思えてきました(笑)。さて、この「水星の魔女」というガンダムアニメがなぜ家父長制と企業が支配する学園ものなのか?ということを少し考えていました。僕は「リアリティー」の問題ではないか?という結論に達しています。

僕自身は、階級社会の成立以降は、社会構造の最大の対立は利害関係を軸とした「階級」にある、という理解をしていますが。この対立は実はみえずらいものです。一方で、現代社会において、さらに大きく認識しやすくなっている対立軸があります。それが「家族(家父長制)支配」であり、LGBTQを含むジェンダー差別であり、人種や民族による差別なのだと思います。水星の魔女では強烈な家父長制と企業による支配が一体となっていますが、ここにリアリティーを持ち得るのは極めて現代日本的な特徴のように思えます。それは、日本社会が「生まれた家」に人生のモードが支配される社会だからです。ゴミのような人材が多数いる自民党の政治家たちをみれば明らかです。ただ自民党政治家の家に生まれたというだけで超イージーモードの人生を送っている人があふれている姿を知らない人はあまりいないでしょう。「親ガチャ」という言葉が少し前にはやりましたが「親が太い」ということは、現代日本では人生をイージーに生きるための必須条件であることは若い人の方が直感的に理解していると僕は思ってます。そして、男女やLGBTQ差別、民族や人種の差別、こうした差別は世界がすぐにでも越えなければならない壁として存在している。しかし、現実はなかなか変わらない。そうした社会構造において、リアリティーをもって乗り越えるべきものを示そうと思ったときに、学園という狭い世界で、狭い人たちの物語を描く必要がでてくるのではないか?初代ガンダムが描いたテーマはおそらく「戦争」でした。この戦争というテーマを描こうと思ったときに、それがアニメであれ、小説であれ、乗り越えるのは一人の力では不可能ということになります。現実にはイデオロギーや政党や運動団体の力を介在させて、決着をつける必要がでてきます。例えればいまひろがる核兵器廃絶の世界的な動きのようなイメージ、そうでなければ変わらない。だから初代ガンダムの世界では戦争をやめれずに破滅する人類の未来像しかもてていません。きっと現代のガンダム「水星の魔女」が提起する変えなければいけない構造はもっと身近でリアルなものです。ひとりひとりの乗り越えなければならない「物語」に直結するものとして提起しています。アラフィフのおっさんとしては、若い人が新しい社会をつくろうとするのを、邪魔をせず、きっとできるその新しい社会がどんな素晴らしいものか?という立場でいたいと思っています。家父長的な家族制度も、男女やLGBTQ差別も、人種や民族の差別も、きっと過去のものにできるだろうと願ってます。