京都在住シングルファーザーおじさんのつれづれ雑記帳

京都在住おじさんによる匿名の日記です。ネットのすみっこでひっそりと生きています。ただいまシングルファーザーとして生きてます。備忘録ブログ

喧嘩稼業(木多康昭)から考える凄惨なシーンのリアリティはどこからくるかについて

 木多康昭氏の喧嘩稼業、結構面白く読んでいます。

  

 ところで、今回の不死身のドMボクサー石橋強編で、佐藤十兵衛が石橋の指を引きちぎりにかかるシーンがあります。

 具体的に言うと、石橋の指が回転ドアの間に挟まり、十兵衛が容赦なく回転ドアを回す・・・引きちぎれそうになる石橋の指・・・石橋はなんとか指を引き抜きちぎれることはなかったわけですが・・・

 このシーンが見ていても実に痛い、石橋の痛さが見ているものに伝わってくる感じです。

 率直に言って、作者の木多康昭氏の絵は並み居る漫画家の中ではウマイ方ではないようにもおもいますし、この石橋の指を挟むシーンも渾身の画ということではなく、あくまで戦いの一コマです。

 それでも見ている方は痛い!!やっぱとてつもなく痛い!!

 で、ここから本題なんですが、凄惨なシーン、痛みのリアリティはどこから来るか?という問題です。

 僕はそれは端的に言って読者が痛みを想像できるか否か?にかかっているとおもいます。

 ピストルで頭を撃ち抜かれるというシーンは凄惨ですが、やはり僕にとっては具体的に痛みを想像することはできません。ノコギリで腕を切られるようなこともやはりなかなか想像できない。ましてや切られるのが首とかになれば画が相当凄惨なシーンであってもやはり痛みはなかなか脳内では再生されない。

 ところがです、この佐藤十兵衛が石橋にしかけた、回転ドアで指を挟むというシーン、その痛みが容易に想像できる、僕自身指を失うほどのことが指におきたことはない、ないんだけれど、指がちぎれそうなくらいの勢いで挟まれるというのは、今までの人生体験上から言って完全に想像の範疇、だから痛い、とてつもなく痛い。

 ここが実はフィクションにおける凄惨なシーンをリアルに描く肝であると僕はおもいます。どんなに凄惨なシーンをどんなにリアルな描写で描いたとしても、多数の読者が想像できてはじめて凄惨なシーンとして成立する。

 木多康昭氏の喧嘩稼業は作者の意図してかしないかは僕にはわかりませんが、そのあたりかなりよくできた作品で、それが面白さにつながっているように思います。